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福岡高等裁判所 昭和50年(ネ)253号 判決

控訴人

(附帯被控訴人、以下控訴人という。)

国際協力事業団

右代表者総裁

法眼晋作

右指定代理人

上野至

外二名

被控訴人

(附帯控訴人、以下被控訴人という。)

松野美代子

外四名

被控訴人ら訴訟代理人

小野山裕治

主文

原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。

被控訴人らの請求を棄却する。

本件附帯控訴を棄却する。

訴訟費用(附帯控訴費用を含む)は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実《省略》

理由

一被控訴人美代子がなくなつた承継前の原告松野武利(昭和四八年八月三〇日死亡―以下単に松野武利という。)の妻であつた者であり、その余の被控訴人らがいずれも被控訴人美代子と松野武利との間の実子であること、控訴人が昭和四九年八月一日同年法律第六二号に基づき設立された特殊法人であつて、その設立と同時に解散した海外移住事業団の権利義務の一切を承継したものであり、同事業団は、昭和三八年七月五日同年法律第一二四号に基づき設立された特殊法人であつて、その設立と同時に解散した財団法人日本海外協会連合会(海協連)及び日本海外移住振興株式会社の権利義務の一切を承継したものであること、海協連は、海外移住の斡旋及び援助を行ない、かつ海外移住の推進を図ることを目的とする団体であつて、右目的を達するため移住者の募集、選考等のほか、移住者に対する渡航費その他の資金の貸付及びその回収に関する事業等を行つていたものであり、財団法人福岡県海外協(県海協連)は、海協連の一会員で、昭和三四年当時は海外移住の啓発、広報等の業務のほか、海外移住に関し主務官庁又は海協連からそれぞれ命ぜられ又は委託された事業を行つていたものであることは、いずれも当事者間に争いがない。

二ところで、被控訴人らの主張する本件損害賠償請求権の発生原因は、要するに、ブラジル国パイア州所在のジユセリノ・クビチエツク植民地(J・K植民地)の入植者募集に際し、海協連から植民地移住希望者の募集に関する事務を委託された県海外協が、松野武利に対してなした説明と、現地における実情との間に喰い違いがあり、そのため右募集に応じてJ・K植民地に入植した松野武利、被控訴人美代子及び同昌代が損害を蒙つたというにある。そこで、以下県海外協が松野武利に対してなした説明、現地の実情、松野武利の現地における動向等について、順次判断する。

三県海外協の松野武利に対する説明

昭和三四年一一月頃、福岡県鞍手郡宮田町所在の貝島炭鉱株式会社に勤めていた松野武利が、吉田光治及び吉田田市らと共に県海外協を訪れ、海外移住の相談をしたことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

1  松野武利は、当時炭鉱業界には、人員整理や企業整備等の噂があり、その将来に必ずしも明るい見通しがなく、他方、海外移住の機運が盛んな時機でもあつたので、自らも開拓自営農として海外に移住したいと考えるに至り、妻の被控訴人美代子の父である吉田光治及び右被控訴人のいとこである吉田田市らと共に数回に亘り県海外協を訪れ、海外移住について相談した。

2  県海外協では、その職員であつた財津勇が相談に応じ、海協連等から配布された海外移住に関する最新の資料(後記「J・K植民地概況」を含む各種パンフレツト類)を交付したうえ、松野武利の意向に従い、当時海協連が募集中であつた本件J・K植民地イタピシリカ地区への入植を斡旋することとなつた。当時県海外協は、右植民地について何ら独自の調査資料を持たず、従つて、財津勇としても、もつぱら海協連の定めた募集要領にのつとり、かつ海協連作成の「移住執務提要」(乙第一五六号証の一ないし三)や「J・K植民地概況」(甲第三号証)等の資料に基づき、同植民地への入植条件や現地の自然条件等について説明をした。

3  右説明によると、(1)一般に、ブラジル国への公募家族移住者の場合、三親等内で構成された、おゝむね満一五才以上五〇才未満の働き手三人以上を有することが条件となり、(2)本件J・K植民地イタピシリカ地区への受入条件として、同地区(約一六〇〇ヘクタール)を六二ロツテ(一ロツテは平均二五ヘクタール)に分割し、そのうち二ロツテを集団住宅地域とし、五〇家族の日本人移住者を受入れ、一家族に一ロツテを割当て、残り一〇ロツテを将来これら移住者が現地で分家独立する場合を考慮して保留するというものであつた。

4  その他、松野武利が移住相談時に県海外協から交付された前記「J・K植民地概況」(甲第三号証)によれば、受入条件のうち、(1)ロツテの状況は、相当に起伏があり、大体再生雑木林(直径一五センチメートル以下の小木が多い。)、一部草原であり、砂質土壌(サンペドロ地区は粘土質が多いが当地区は砂質で、前者より地力は弱いが取扱い易いといわれる。)である。住宅地区には共同水道を作る計画であるが、入植時には間に合わず、当分水汲みをする覚悟が必要であり、各ロツテは小川に接する見込みであるが、本格的な灌漑用水は望まれない。(2)住宅、学校等については、集団形式にて住宅五〇戸を建築中であり、植民地に電線を引込むべく計画中であるが各戸点灯に至るまでには相当の時日を要する。学校は植民地当局が開設を確約している。(3)社会、経済条件として、生産物は、一部は植民地の協同組合を通して販売し、一部は近接の小都市へ直接持ち行き小売りしており、サルバドール市場への搬出は植民地当局のトラツクに依存しており、鉄道は搬出には役立ない。(4)営農計画として、第一年度は蔬菜を主とし、第二年度には養鶏、養豚を加え、漸次果樹に及ぼすことが順序と見られ、各移住者の将来の創意にかかるものが多く、年次営農収支はサンパウロ方面と大差はない見込みで、第二年度より自立態勢に入ることが可能である。(5)携行物資については、作業衣・地下足袋・大工道具・農機具等は別として、日用品類は現地で必要なものをその都度買い足せばよいので、物資を持参するよりなるべく多くの資金を携行する方が有効である。肥料農薬品は現地のものが有効である。このような趣旨の記述がある。

5  松野武利は、上記県海外協職員の説明及び交付された資料を検討の上、J・K植民地イタピシリカ地区への移住を決意し、吉田光治の構成家族として、妻である被控訴人美代子及び二女の同昌代を伴い、吉田光治及びその家族らと共に、昭和三五年二月二日ブラジル国へ向け神戸港を出航した(松野武利らが右日時に日本を出発したことは当事者間に争いがない。)。

以上の事実が認められ、〈る。〉。

被控訴人らは、前記県海外協の説明に関して、「松野武利は、その家族中に働き手が同人と妻である被控訴人美代子の二名しかいないので、一旦は移住を断念していたところ、財津勇が海協連に照会のうえ、同人に対し、吉田光治の家族構成員として本件植民地に入植し、現地で分家独立する形式をとれば、分家独立用ロツテの分譲を受けることが可能である旨説明したので、同人はこれを信じて移住を決意した。また、入植地は五年間肥料を必要とせず、風土病がない旨の説明を受けた。」旨主張するが、〈証拠判断略〉、他に県海外協が被控訴人ら主張の趣旨の説明(特に稼働力三名という募集条件をみたすための便法として、形式的に吉田光治の家族構成員となつて入植し、現地で直ちに分家独立すれば、当然に分家独立用ロツテの分譲を受けられるとの点)をしたことを認めるに足る証拠はない。更に、被控訴人らは、「松野武利は、渡航前に営農資金の貸与を申込んだところ、現地で融資を受けた方が利息及び償還期限の点で有利であるという県海外協の説明を受けたため、右申込みを取止め現地融資を受けることにした。」と主張するが、右被控訴人ら主張の事実を認めるに足る証拠はない。

四J・K植民地イタピシリカ地区の実情

〈証拠〉中後記認定に反する部分は採用できず、他にこの認定を妨げる証拠はない。

1  概況

J・K植民地は、ブラジル国移植民院及び同国パイア州の共営植民地で、パイア州の州都サルバドール市(人口約六〇万)の北西約八〇キロメートルの地点にある。同植民地は、元来、サルバドール市等の都市部に対する蔬菜や果実等の安定供給と、ブラジル人の自営開拓農の定着とを目的として、昭和三二年頃創設されたものであるが、営農の模範とする意味で日本人の導入が追加計画され、昭和三四年春頃から海協連の斡旋及び募集により、日本人移住者が入植するに至つた。同植民地は、サンペドロ地区、ルンダ地区、カマサリー地区、ケブラコツコ地区及びイタピシリカ地区の五地区に別れ、最初に開発されたルンダ地区が中心となり、同地区には、営農及び日常生活上の諸施設が完備していたが、その他の地区は、昭和三五年当時、なお開発途上にあつた。松野武利が入植したイタピシリカ地区は、ルンダ地区中心部から約八キロメートルの地点にあり、もつぱら日本人移住者を入植させるため創設されたものであつて、平均約二五ヘクタールのロツテが六二あり、水道、電気の設備はなく、道路は未整備、小学校は昭和三五年四月開設されたばかりであつた。同地区には新しい試みとして、中心部に集団住宅地があり、移住者用の住宅が用意され、そこには電気が来るようになつていたが、日本人移住者は、営農に不便である(毎日通わねばならない。)として、右住宅に居住することを好まず、入植早々、各自のロツテに仮小屋を建てそれに居住するものが多かつた。

2  分家用ロツテ

イタピシリカ地区の六二のロツテは、当初の計画では、そのうち二ロツテを集団住宅地区とし、五〇ロツテを入植者に分譲し、残り一〇ロツテは、将来移住者が分家独立する場合のため保留しておくことになつていた。しかしその後入植計画に変動があり、松野武利が入植した昭和三五年三月頃には、六〇ロツテの全部に新規入植者を導入することになつていたので、同地区には分家独立用ロツテの保留はなかつた。但し、J・K植民地内には、分家独立用ロツテが二〇保留されており、更に次々と新しいロツテが開発されていたから、同植民地全体としては、分家独立者がロツテの分譲を受ける余地はあつた。なお、分家独立とは、原則としては入植者の子弟が現地で婚姻し分家する場合をいうが、実際には、空ロツテがいくらでもあつたので、植民地所長に営農実績が認められれば、新たにロツテの分譲を受けることは可能であり、その後現実に同地区で数家族がロツテの分譲を受けて独立している。

3  土地条件

イタピシリカ地区は、なだらかな起伏の土地で、大体が再生雑木林で覆われ、一部は草原であり、各ロツテによつて相違はあるがおよそ八割程度耕作可能である。土質は全般的に砂質土壌で、特に多量の肥料を必要とするものではなく、農耕(殊に蔬菜類の裁培)に適している(なお、ルンダ地区の土壌は、テーラロツサに次いで肥沃といわれるマサツペのところが多いが、右土壌は雨が降るとぬかるみになり、日照りにはかちかちになつて、営農上かえつて困難もある。)。

気候は亜熱帯性で最高温度三七、八度、最低温度一八度位で、四月から八月が雨季、九月から三月が乾季となり、乾季には灌水の必要があるが、ほとんどのロツテが小川に接しているので灌概用の水が不足することはない。

4  風土病

J・K植民地内でマラリア患者が発生した例は報告されておらず、その他同植民地には風土病と称すべき特別の疾病の存在は認められない。

5  融資関係

日本人入植者に対する現地融資は、当時日本海外移住振興株式会社(現地法人名イジユウシンコウ信用金融株式会社)が取扱つており、海協連レシーフエ支部がその代行機関であつたので、J・K植民地入植者は、レシーフエ支部を通じて融資を受けることになつていた。融資には、短期営農資金、長期営農資金、土地購入資金等の貸付があり、保証人二名及び物的担保が必要であるが、営農資金の場合には、営農機具類、トラツクなどの資産を担保にすることができ、それらの資産がないときは、成育中の作物を担保にすること(収穫物担保)が認められていた。

松野武利は、後記のとおり昭和三五年三月九日入植し、同年七月一〇日退耕しているが、同人がその間に海協連を通じ融資の申込をした事実は認められない。

6  入植者の営農状況

入植者は、入植後まず、収穫が早く(大体三か月後に収穫可能となる。)値段も高いトマトの栽培から始める者が多く、蔬菜類としてはその他にナス、キユウリ、サツマイモ、西瓜等各人の工夫により栽培を広げ、その間に海協連の指導により養鶏も導入され(鶏糞は肥料に使える。)、一時は相当の収益を挙げた。その後次第に、椰子、柑橘類、胡椒等の永年作物や、グラジオラス、バラ等の花卉の栽培に及んでいる。入植当初の入植者の生活は困難を極めたが、吉田光治らが入植した二年後に、トマトの黄金時代があり(トマト一箱(六〇キロ)で米一俵が買えた。)、一回のトマト栽培でロツテの代金を一括して支払う程の収入を得た例もあり、着実に営農に努力した入植者は、おゝむね四、五年のうちに安定した農業経営が可能となつている。総じて、J・K植民地(イタピシリカ地区)はサルバドール市の近郊という有利な立地条件に恵まれているうえ、気候、風土から一年中各種の作物の栽培が可能であり、将来性のある移住地といいうる。

イタピシリカ地区には、昭和三五年三月から同三六年三月まで、四回にわたり日本人五八家族が入植したが、昭和四二、三年頃までにその半数近くが退耕している。しかし、他の植民地に比して退耕者の比率が高いわけではなく、退耕の理由は様々であり、より良い土地や職業を求めての移転もあり、同地区が農業に不適当だということではない。昭和五三年三月二〇日現在、原始入植者(入植後引続き異動のない者)の数は一五名である。

昭和四九年度の農業経済調査によれば、南米各地の集団移住地三四個所のうち、J・K植民地は、農業粗収入で二一位(三五七万円)、農家経済余剰(粗収入から、経費、家計費、公租公課を控除したもの)で一四位(一二二万五〇〇〇円)となつている。

五松野武利とその家族の入植から帰国までの経過

〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  松野武利、被控訴人美代子及び同昌代は、吉田光治の家族構成員として、昭和三五年三月九日J・K植民地イタピシリカ地区に入植した(右事実は当事者間に争いがない。)。吉田光治には同地区の四七番ロツテが割当てられたが、同人と松野武利は同ロツテ内で別々の場所を開墾し、トマトの栽培にとりかかつた。当時、同地区には空ロツテが多数あつたので、松野武利は入植早々の同年三月末か四月初頃、海協連のJ・K植民地駐在主任西本伍一に対し取り敢えず分家独立用のロツテを取得したい旨の意向を伝えたところ、同人から、入植計画の変更により同地区のロツテはすべて新規入植者に割当てられることになつている旨を聞かされた。そこで松野武利は、後続の入植者にロツテが割当てられてしまう前に、ロツテの分譲を受けようと考え、同年六月頃、前記西本伍一の後任の主任駐在員向井田技に対し正式に分家独立用ロツテの分譲を植民地当局に取次いでくれるよう申入れたので、同人から同植民地の管理責任者であるジヨン・メレイレス・ソーザに対し右要望を伝えたところ、同所長は、松野武利が入植して間もなく、吉田光治のロツテの開拓も進んでいないこと、同植民地内には十分ロツテの余裕があること等を考慮し、吉田光治の営農の見通しが立つまで当分の間分家独立を見合わせるよう返答した。

2  松野武利は、右返答に接し、海協連に対し一方的に強い不信と不満の念を抱き、にわかに同植民地での営農意欲を失い、ブラジルで百姓をするには、トマト栽培以外には考えられず、このまま吉田光治のロツテで連作ができないトマトの栽培をしていては二、三年のうちに行き詰り、二家族共倒れになると考え、一つには他の場所でブラジル農業を勉強したいという考えもあつて、同年七月一〇日同植民地を任意退耕し、同植民地の近くで農場を経営する五味栄に雇われ、自己の家族と共に右農場に移転した。

3  その後も松野武利は、吉田光治を訪ねるなどしてJ・K植民地に度々出入していたが、その際海協連の職員や入植者に対する粗暴な言動が多く、昭和三六年一月二一日、ジヨン所長の面前で、通訳を依頼した島田マリアに対し、「お前は通訳なのだから、自分の言つたとおり訳せ。」などと怒鳴り同女を草履で打とうとしたりしたことから、同植民地を追放された。

4  松野武利は、昭和三六年三月五日、五味栄の農場を出て、昭和四〇年六月頃までパイア州の各地を転々としながら稼働していたが、思わしい成果を挙げるに至らず、その間リオ・デ・ジヤネイロの日本大使館員や、海協連ないしその後身の海外移住事業団の職員に、抗議(日本における募集条件と現地の実情とが相違しているとのこと)や要求(日本への即時送還、生活保障、土地購入資金の融資、就職斡旋等)を繰返し、暴力を振うなどし(たとえば、昭和三八年一一月二日海協連J・K植民地駐在員坂口章司の顔にタバコの火を押しつけ火傷をおわせ、顔面を殴打したなど。)、次第にブラジルにおいて自営農として立つて行く見通しを失い、日本へ帰国する資力もなく、自暴自棄に陥り、昭和四〇年八月一三日海外移住事業団レシーフエ支部事務所において、支部長竹野家茂に対しダイナマイトを突きつけ、これを爆破させようとしたが未遂に終り、同月一八日ブラジル国公安局から危険人物であるとして国外追放を命ぜられ、同年九月一六日空路羽田へ帰着した。残された被控訴人美代子らは、国援法(国の援助を必要とする帰国者に関する領事官の職務等に関する法律)の適用を受け、昭和四一年六月一五日海路神戸港へ帰着した。

〈証拠判断略〉

六以上に認定した事実に基づき、県海外協の説明とイタピシリカ地区の実情とを比較検討するに、分家独立用ロツテの保留の有無の点については、確かに県海外協の説明と現地の実情との間に喰い違いがあることが認められるが、この点を除けば、両者間には格別の相違は認められず、むしろ、海協連作成の資料に基づいて県海外協のなした説明は、現地の実情を正確に伝えているものといわなければならない。そして、分家独立用ロツテの件に関しても、県海外協が松野武利に対し、同人が現地人植後直ちに、かつ当然、分家独立用ロツテの分譲を得られる趣旨の説明をなしたとは認められないこと前叙のとおりであり、しかも現地の実情としては、イタピシリカ地区ないしその近隣地区に、将来分家独立用ロツテを取得しうる可能性は十分あつたのであるから、この点の喰い違いは、松野武利の移住決意を誤まらせ、同人の移住目的を無にする程度に達するとは認めることができない。さすれば、県海外協がイタピシリカ地区に関し、現地の実情と相違した説明をなしたことにより、松野武利、被控訴人美代子及び同昌代が誤つた期待のもとに同地区への移住を決意するに至つたとの被控訴人らの本件主張はその前提を欠き採用することができない。のみならず、松野武利は、吉田光治の家族構成員として入植しながら、開拓早々の稼働力を最も必要とする時期に、分家独立用ロツテの分譲を申入れ、その希望が早急に容れないことを知るや、何らの合理的根拠もなしに(叙上の認定により明らかな如く、同地区はトマト以外にも各種の作物の栽培が可能である。仮にトマトだけを連作するとしても、行き詰るのは、二、三年先というのである―松野武利自身の供述。)、僅か四か月で同植民地での営農に自ら見切りをつけ、任意退耕したのであり、退耕後、結局自営農として定着できなかつたことも、前記認定事実に徴すれば、同人が自ら招いた結果といわざるを得ず、従つて、松野武利のJ・K植民地からの退耕ひいてはブラジル移住の失敗と、県海外協ないし海協連の説明との間には相当因果関係があると認めることができない。

してみれば、被控訴人らの控訴人に対する本件請求は、その他の点について判断するまでもなく、全部失当として棄却を免れない。

七よつて、被控訴人らの請求を一部認容した原判決は不当であり、本件控訴は、理由があるから民訴法三八六条に従い原判決中控訴人敗訴部分を取り消し、被控訴人らの請求を棄却することとし、本件附帯控訴は、理由がないから同法三八四条によりこれを棄却すべく、訴訟費用の負担につき同法九六条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(園部秀信 森永龍彦 土屋重雄)

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